新しい薬 初日

夕方からと言われていた化学療法の点滴が昼前にはじまったというLINEが入る。

化学療法がはじまると味覚も変わるし吐き気も出るので、「食事のあとにしてくれたらいいのに」と思う。些細なことだけれど、もやもやとした不信感が募る。

 

一昨日からわたしは膀胱炎になってしまった。用を足すと文字通り飛び上がるほど痛い。「尿道に焼け火箸を突っ込まれるような痛みがある」と「家庭の医学書」に書いてあったが、実に上手い表現だと思う。中学生の頃、離婚して母が出て行ったあとに自分の排尿痛は膀胱炎ではないかと調べて読んだのだった。

 

「家庭の医学書」にはとにかく水を飲め、日に2リットルほど飲むことだと書いてあったのでひたすら水を飲んでいたらほどなくして治った。しかし今回はすみやかに病院へいって薬をもらうことにしたので、面会は夕方に近い時間になった。

 

眠っている間に点滴は終わったそうで、幸い目が覚めてからとった遅い昼食は問題なく食べられたそうだ。もちおはベッドの足下に畳んだ掛け布団を枕にして、本を読んだり、ネットを見たり、日がな一日ダラダラとくつろいでいた。点滴後にしては調子がよさそうだ。

 

「悪くない。打った直後に食事が出来るなんて。そんなにきつくないし」と不安と期待が入り混じった様子でいう。今回からシスプラチンを使うのだけれど、これまで使っていたオキサリプラチンより副作用が重いと聞いていたので、我々は戦々恐々としており、まだ油断できない気分。

 

夕食後、TS-1の服薬がはじまる。もちおいわくTS-1を服薬することは「自分で自分の身体を刃物で切り付けるようなもの」だそうだ。飲めば不快感と気分の悪さが襲ってくることがわかっているものを自分から飲むのだから、いやでいやでたまらない。見ていて気の毒だ。

 

しかしそれもすんなり飲んで、食後はまた機嫌よくスマホを眺めていた。ヒトデさんがビットキャッシュで失敗した記事が気になるらしく、ひとしきり持論をぶつ。好きな話題のエントリーが上がってうれしそう。

 

わたしはベッド脇のテーブルに持ち込んだPCを広げ、仕事を片づけながら完全無欠珈琲を入れたり、要りようなものをとってやったりして過ごした。仕事が片付いたあとは肩と背中を揉んでやり、寝そべるもちおの脚を膝にのせて足の裏から太腿も揉んでやった。

 

恐怖に慄いて迎えた日だったけれど、いたって平穏な一日だった。

これを書いている最中に「手足が浮腫んでパンパンだ」というLINEが来た。不測の事態に備えるための入院だ。専門家が適切な処置をしてくれるよう、無事を祈るしかない。

 

暗い玄関に灯りをつけて「ただいま」と声をかけた。

 

『ただいま。もっちゃん?はてこ帰ったよ』

去年もちおが最初の投薬で入院したとき、ひとりで帰り着いた家の玄関で、そういいながら靴を脱いだことがあった。

『もっちゃん、また元気になって、よかったね』

ひとりきりの玄関で家の奥に向かって声をかけた。声が掠れて喉が詰まる。

 

あのときは深刻だった。「また元気になる」ことが現実に来ると信じることができなかった。時間は失われていくばかりに思えて、もちおから一瞬も離れてはいけないと思っていた。まだ慌てるような時間じゃないと知っていたら違ったのに。教えられるなら教えてあげたい。

 

でも未来の自分からここまでは慌てなくていいと知らされたら、それはそれで怖いよね。「ここまでは」なんていわれたら、「そこから先はどうなのよ?!」って思っちゃうよね、きっと。

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